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「空間、言語、人」に関してのブログ始めました。 評論、文学での文書が主になっております。

「スマート化の未来」

 

 昨今 Apple Watch,Google Gulassなど身の回りの物がどんどんネットに繋がり、身体とスマートフォンに連動し、生活品のスマート化が盛んになってきている。近い将来,生活品すべてスマート化されるに時代になったらどんな世界になるのだろうか。

 
 
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 朝、ベットの体温調節機能により起床、時計を見て今日のスケジュールを確認し、今日の体の調子を確認。血圧を測る、今週は糖分を控えよう、体調にあった音楽が自動的に部屋に流れる、朝食を作ろうと冷蔵庫を覗く、卵がない、ワンボタン(amazonのサービス)で生卵を注文、数時間で到着、補充。朝食のレシピがわからない、「hey siri!」
面倒な朝にストレスのない1日をスタートできる。そして誰でも、なんでも、必要以上に考えず、簡単に人生を送ることが可能だ、いや当たり前になってきている。
 
 
 しかし生活がスマート化される事により、生活に工夫がなくなっていると感じる。生活の1つ1つの答えがインターネットに存在するので、生活が単一化し、多様化が行われなくなる。つまり私達は物事を自分の脳で考えず、ネットで調べることにより、生活の思考停止が起こってる。簡単に言うと、脳=networkに移り変わり、ネットが頭脳になっているのだ。
他方でスマート疲れというキーワードが流行っている。生活のスマート化に拒絶反応を起こす人間達と私は仮定する。何故スマート疲れを起こすのか。人間ははるか昔ケータイもパソコンも電子機器がない時代、自分の脳で考え、生きる為に狩りをし、作物を作り、そして火を発明し、海を渡るために羅針盤を作った。古代の人達は脳をフル活動させて生活し、工夫が当たり前の習慣だったのだ。現代でいうネットの情報がすべて自分自身の脳で、分からない事があれば自分で考える、現代と比べると脳の思考回路が全く逆であったのである。
 
 
 つまり僕が考えるにスマート疲れしている人はネットに繋がりすぎていることによる疲労。または生活品のスマート化による環境変化により脳を使えてない、もっと脳を使いたいという脳の反応、ある意味生理現象の一種なのではないのかと感じる。
 
 話は戻るが、生活すべてがスマート化された後、僕は原点回帰、「脳活」が始まるのではないかと考える。「脳活」つまりネットですべての情報が飽和状態の今、基本的な情報はすべてネットで補完できる。そこから新たにイノベイティブで多様な新しい"何か"を作り出す人間活動、または生理現象というようなものである。
 それが「脳活」である。
 
 その"何か"どうやって作るのか。答えは当たり前なのだが自分の脳を使うのだ。脳は唯一、広大なネットの海には存在しない自分の表現(意見)を作り出せる私達のコンピューターなのだ。
 

 なぜ自分の表現を作り出せると言えるのか。僕たち人間、1人として同じ人間はいないからである。それは姿形、人種、文化などのルーツから細胞、DNAに至るまで私達人間はそれぞれ全く“違う“からである。10人の20歳の青年にに夢は何かと尋ねたら、必ずそれぞれ違う夢が返ってくる、趣味は、好きな女性のタイプは、好きな食べ物は、細分化させていけば、必ず同じ考えは返ってこない、必ずだ。

 
 
 そしてそそれぞれの答えはネットには絶対存在しない。理由は上記の通りであるし、人間の脳(考え)毎秒、毎分移り変わっているからだ。
 
 
これらから脳>ネットという図式があると私は感じる。
 
 
 当たり前のことなのだが、しかしその当たり前のことができていなかったという事に今人間達は気付き始めてきているという事も事実だ。
 
 
 現在SNSの普及により、自分自身の個人データをネットに投稿する事が用意になり、当初はブームであったのだが定着化しつつある。最近ではyoutubrなる職種のものから、自作の歌や絵、映像、はたまた使い古した自慢のジーンズから革製品まで「モノ」に様々な種類の自分という"個"を投影させることが定着化している。そしてジャスティン・ビーバーなどの歌手は音楽プロデューサーの目に止まり、デビューさえしてる。この状況は単に自慢や、プロデビューしたいという意思表示ではなくもっと純粋無垢な"自己表現(アート)"なのではないか。
 
 
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ではなぜ彼らは自己表現をするのか。
 
 
私はこれを「脳活」の初期症状なのではないかと思う。
 
 
 脳活初期症状者の目標なるものは他人からどれだけ賞賛されるかが目標である。評価されるには2つの注意点がある。1つ目は他人と同じものではないこと。2つ目は必要以上にネットに頼らないことである。以前大学の論文、課題で"コピペ禁止"というキーワードを聞いたことがある人は多いはずだと思う。この意図というのは"ネットで拾ってきた情報を単純にコピーするのではなく、きちんと自分自身で情報を吟味し、自分の意見を言え."という意図がある。つまり何が言いたいかというと、この意図が現代の"自己表現"の評価されるポイントであり、ネット+自分の脳の使って考えて、他人と違うもの(工夫)をした、イノベイティブな表現しか評価されないということである。そして現実でもイノベイティブな表現しか評価されない時代が到来するのである。
 
 
このSNSでの自己表現の時代の先にある時代、それは「思考のアート化」現象である。これはSNSの世界だけではない。現実社会にも影響を及ぼすのである。思考のアート化とはなんなのか。これは単純に"よく物事を考える"ということ、そして普段脳の10%あたりのパワーしか使えてない人間が11.15.20%…と脳の使用範囲の増加、これは新たな人間の進化を意味するとも言える。
 
 
 この"脳活"の着地点である、アート化というものを考えてみよう。「アート」とは"メッセージ"なのである。すべてのアートと言えるものにはメッセージがある。アートというものは何も絵画、建物、彫刻だけではない、コミュニケーション、遊び、スピーチ、作文など人間によって考えて生み出され、メッセージがあるものこれらすべてがアートなのである。何気なく描いた落書きにもメッセージが入っている。感じる事があると思う。
 
 
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 世の中には「常識」という見えないルールがある。

 

 常識は権力者、宗教、国家、などなど、これら名前の知らない誰かが作ったものだ。皆、誰も疑わずに常識というものに従って生きている。しかし次の時代、これら常識と呼ばれるルールが壊れるのではないか。何故なら次の世代の人間たちは"よく考える"からである。コミュニケーションの方法、家族のあり方、人種差別、お金の価値、国境とは、などなど、人間一人一人が常識について考えて、自分の答えをそれぞれ人間が出すことにより答えが超多様化し、その後アート化するのである。それによって常識、普通、当たり前という境界線が無くなりすべての物事をのあり方がアート化、超多様化してきて常識がぶっ壊れ始め、答えがネットの情報のように無数に広がっていく。
 
そんな未来が待っているのである。